むかしといっても、さして遠いむかしではありません。明治のころのことです。小川の上流赤沢へ行く途中にある、小中尾の対岸の平に山小屋がありました。
この山小屋には、近くの山で木を伐る杣衆と、伐った木を山から川へ出し、さらに小谷狩をして流送する日雇(ひよ)衆が、大勢寝泊りをしていました。この他には、炊事の世話をする“かしき(炊婦)”1名と、薪を割って風呂をたいたり、杣衆や日雇衆の仕事場まで弁当を運んだり、毎日町まで郵便を持ってきたり、町からの連絡の書類を運んだりする、茶坊といわれる、少年がいました。
この茶坊の少年の特権といえば、杣衆や日雇衆の山から帰ってくるまでに、谷川から引いた水でわかした風呂に、先に入ってもよいことでした。もちろん湯かげんを見ておくという、ねらいがあったかもしれません。“かしき”のおばさんも、先に入ってもよいきまりでした。
秋の紅葉の美しい頃のことでした、町へ用事に行こうと焼笹へ向っていた、茶坊の少年はふと山裾の木の間に、沢山の皮茸(かわたけ)が生えているのを見つけました。この茸は黒っぽく毛のはえたように見えますが、味が良くとても美味しい茸です。心優しい茶坊の少年は、小屋に引き返し大きな篭を、背負ってきて、この茸を沢山取って、杣衆や日雇衆に食べさせ、喜んでもらおうと“かしき”のおばさんに、夕飯のおかずに煮付けてもらうように頼んで、再び町へ用事に下っていきました。
茸とりをしたので、その日は帰りが遅くなり、茶坊は薄暗くなった山道を、小中尾近くまできました。
すると、どこからともなく、「ううん」「ううん」という気味の悪い、うめき声がきこえてきます。小屋に近づくと声は一段と大きくなり「ううん苦しい」「ううん助けてくれ」「ううん苦しい」「ううんもうだめだ」と、いう声まできこえます。
小屋の戸を開けると、そこはまるで苦しがっている人や、もう死んでいる人もいて地獄の絵図を、見ているようでした。
なんと茶坊の少年が採っていた茸は、皮茸に大変よく似ている、猛毒の茸のクマベラでした。
驚いた茶坊の少年は、山道を転がるように一番近い、焼笹集落に急を告げ、集落の人はすぐに駆けつけ、やがて町からも医者も駆けつけましたが、ついに助かった人は、茶坊の外一人もいませんでした。
山で亡くなった人の葬儀がすむと、この山小屋は取りこわされてしまいましたが、それからはこの附近を通る人の耳に「ううん」「ううん」といううなり声が、どこからともなく聞こえてきたそうです。
特に茸の生える秋になると、うなり声はよく聞こえたといいます。
誰いうともなく、この附近のことを「うなり小屋」と呼ぶようになったそうです。
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