林道合流部付近
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阿寺伐木事業所
ボタン
阿寺森林鉄道「阿寺伐木事業所」
前ページの数歩先(ひとつ目のヘアピンカーブ)。矢印は上段の道床(阿寺タツガヒゲ林道)。
2009年11月下旬撮影
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阿寺伐木事業所
阿寺森林鉄道「阿寺伐木事業所」
上写真付近の高台から大沢方を見る。
2009年11月下旬撮影
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阿寺伐木事業所
阿寺森林鉄道「阿寺伐木事業所」
戻ってひとつ目のヘアピンカーブ手前。人物の場所に注目!!
2009年11月下旬撮影@ワル沢氏
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阿寺伐木事業所
阿寺森林鉄道「阿寺伐木事業所」
上写真の人物の場所。道床らしき跡が続いている。
2009年11月下旬撮影@ワル沢氏
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阿寺伐木事業所
阿寺森林鉄道「阿寺伐木事業所」
上写真の人物が撮った写真。道床っぽい。これは家に帰ってわかったことだが、ココはかつての「阿寺伐木事業所」だったトコではなかろうか。「木曽谷森林鉄道改訂新版」をお持ちの方は“P268~269(以下、伐木写真)”を開いてほしい(持ってない方スマン)。中央の車庫(突っ込み線)に入る道床ではないだろうか。
なお、「郷土出版社・思い出の木曽森林鉄道P70」にも写真がありますが、小さい上に不鮮明です。また「木曽谷森林鉄道1997年版P232~233」にも“改訂新版”と同じ写真があります。
2009年11月下旬撮影
41-2
阿寺伐木事業所
阿寺森林鉄道「阿寺伐木事業所」
これは上写真の場所から直線距離でおよそ250M先から撮ったモノだが、背後の山並みが「伐木写真」とほぼ一致している。当初はココかなと思っていたのだが、この先の軌道のレベル等(詳細は割愛)を考えると腑に落ちない点がいくつもあるので上写真の場所とした(但し、未だ迷いはある)。
この疑念を晴らすべく、野尻在中の知人(営林署OB/以下“野尻の古参兵殿”)に「伐木写真」を見せたところ、残念ながら全く覚えがないということである。もっとも「伐木写真」は“昭和初期”の撮影で、野尻の古参兵殿の生まれも“昭和初期”。
オイラが思うに、戦後、拠点が“付知叉”に移り、当地は単なる通過点となり、スイッチバック(伐木写真の機関車の向き等からしてスイッチバックと推測)からヘアピンカーブに改良されたんじゃないかと。野尻の古参兵殿もスイッチバックは大沢停車場の一箇所(後にヘアピンカーブに改良)だけだったと言ってるし。
2009年11月下旬撮影
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阿寺伐木事業所
阿寺森林鉄道「阿寺伐木事業所」
[写真41]の奥から大沢方を見る。人物の下がヘアピン(堀割)道床。
2009年11月下旬撮影
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阿寺伐木事業所
阿寺森林鉄道「阿寺伐木事業所」
引いて。この時はそれほど重要視せず、スルーの形になってしまったが、いずれ再調査を行う予定である(非公式ながら野尻の古参兵殿に打診)。
おっと、書き忘れ。「伐木事業所」とは御料林時代(戦前)の呼び名で、現代(戦後)で言うところの「製品事業所」である。伐木事業所は、昔は“会所(かいしょ)”と呼び、伐木主任がその長で、その下には会計係、掛員(造林・運材・事務)の職員がおり、杣代人・日雇代人(旦那衆)・炊夫(かしき)・持子・茶坊(小間使い)などの事業所付きの人夫がいたそうな。
2009年11月下旬撮影@ワル沢氏
野尻森林鉄道阿寺線路線図

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