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▲前ページのすぐ先。軌道時代の正面のカーブはR=20。
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2018年4月下旬撮影
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▲上写真から須原方を見る。左は製材所(跡)?
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2018年4月下旬撮影
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▲上写真から須原方を見る。
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2018年4月下旬撮影
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▲[写真62]の正面。ヤブラ沢(矢洞沢)を渡る。
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2018年4月下旬撮影
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▲上写真から須原方を見る。
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2018年4月下旬撮影
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▲ヤブラ沢上流方を見る。階段状だ。
沢沿いの歩道を上流方へ行くと、伊奈川森林鉄道の越坂隧道に出ると思う。すぐ上にJR中央西線があるが、おそらく“勝手踏切”がある。
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2018年4月下旬撮影
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▲同上。階段状にした理由として、土石流対策であろうか。かつてはこの沢も“蛇抜け”だったらしい。
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2011年5月上旬撮影
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▲ヤブラ沢下流方を見る。最終的には木曽川に注ぐ。
その昔は右岸に“作場道(さくばみち)”があったという。作場道は田畑に行くために利用する道。農道。
左の道路は沢を埋め立てて造ったような感じがする。その左は国の重要文化財「定勝寺」。
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2018年4月下旬撮影
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▲木曽工場側から見る。軌道時代のココのカーブのR値(半径)は不明だが、おそらく16か12。
軌道時代も短い橋が架かっていたと思われる。現在は「ヤブラ沢2号橋」と言うらしい。
ちなみに、かつてトロッコの脱線転覆事故が発生した現場である。(下記参照)
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2018年4月下旬撮影
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50年前の軽便トロッコ死傷事故について(木下薫 著 / 1969年頃) ※1919(大正8)年頃のお話し |
私が木曽興業KKに入社して1年半を過ぎた秋の頃(と記憶する)の或る晩、8時頃突然3年位先輩の○○さんに呼び出された。
先輩は弓矢(*1)の人だった。ついて行くと駅の便所の裏方に、数人の人が居た。待っていたのだろう。「何をするのかね」と尋ねるひまもなく工事用のトロッコに、有無を云わさず、乗せられた。1台は今すぐ先発したと云っていた。
乗ったトロッコが、須原の何処迄行くのかも知らなかったし、私はこれに乗るのが初めてで誰が乗っているのかも解らなかったが、先輩が乗ったのは確かだった。 ブレーキ用の棒は、□□君が持っていたと事故後に聞いた。
2台目が発車した。心地のよい軽いその金属音をたて、ツーコトンコトンコトンが次第に速くなる様な感じだった。事実速度は加速されていた。丁度其の頃雲間に月が出た、心持ちのよい音は続いていた。ふと前方を見た、其の時すぐ前に、発車したトロッコが、カーブで角度が変わって月の光を受けて見えたのが(元の柏屋のボイラー付近 *2)チラッと見えた。1台目のトロッコはブレーキを上手に使って下って行ったのだろう、2台目はそれに追いつこうとしたのか、又はスピード感を満喫したかったのか今も昔も若い人達のスリルの味を楽しむ気持ちに変わりはないようだ。
私の乗っている2台目のトロッコも、第1のカーブ(*3)は無事に越したが、右カーブのため山側に遠心力でほうり出されてしまいそうになり、手摺りも囲いもない平らなトロッコの、板の上で両端に両手を一杯に広げて、へばり付く様にしてしがみつき、ヤレヤレと思った。其の瞬間今度は左曲がりのカーブ(*4)で然も桟橋の上だ。トロッコは脱線し、左に傾斜したからたまらない。全員折り重なって橋の下に落ちて行った。勿論私も其の一人だった。人の上に落ちたのだろうか、水のじめじめしている柔らかい土の上に落ちたのだろうか……? フト我にかえった時カスリ傷一つしていなかった。
(中略)
翌朝の騒ぎは大変だった。股に丸太のささくれの突きささった者、足を折った者、死んだ者、其の頃はテレビラジオは勿論の事、新聞を取っている家さえ少なかった頃の事である。
たいして深い警察の干渉も無く、その責任も追及される事もなく、怪我人と死んだ者の親兄弟親戚ぐらいの間で大事件が処理され、そして△△君の若い生命は永久に須原から消え去って行った。
小さい須原の部落の重大な事件の一つである。
(*1)現在のJR大桑駅周辺
(*2)[写真68]の正面の家屋が“柏屋”。かつては旅籠だったという
(*3)第1のカーブは、[写真69]の奥のカーブと思われる
(*4)左曲がりのカーブは、[写真69]の手前のカーブと思われる
結局のところ、
・平トロッコには最低4人が乗っていた
・須原からは下り勾配
・ヤブラ沢は桟橋(木橋)
ということが文章からうかがえる。
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平トロツコのイメージ(これとほぼ同じでしょう)
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長野県乗鞍自然保護センター(松本市)の写真パネル
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