小川森林鉄道,林鉄,配線略図,小中尾停車場,スイッチバック
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小中尾停車場
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小川森林鉄道,林鉄,廃線跡,小中尾停車場,スイッチバック,パルプ工場,上松運輸営林署
メインストリートから上松方を見る。軌道跡は道路の左半分。また、この付近に“パルプ工場”があった。

『(ネコ・パブリッシング)木曽谷の森林鉄道 改訂新版 P211』にこの写真とほぼ同位置からの写真があります。

2011年4月中旬撮影
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小中尾停車場
木曽森林鉄道小川線,林鉄,廃線跡,小中尾停車場,スイッチバック,営林署担当区,小屋
戻って、小中尾第2橋梁直後から赤沢方を見る。右の建屋(苗木倉庫?)あたりに“担当区小屋”があったという。
2011年4月中旬撮影
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小中尾停車場
木曽森林鉄道小川線,林鉄,廃線跡,小中尾停車場,スイッチバック,バス停標
上写真の建屋の前。バス停。ココで降りる人っているのカナ? っていうか、すでに廃止っぽい?

【2011.12.20 追記】すでに廃止されたようです。標識も撤去されているし、路線図からも消え失せている。
2003年11月上旬撮影
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小中尾停車場
木曽森林鉄道小川線,林鉄,廃線跡,小中尾停車場,スイッチバック,小屋の跡
[写真92]の左手、道路の左下(小川沿い)。小屋の跡。
2011年4月中旬撮影
呻き小屋伝説...
2004年に赤沢自然休養林・去来荘のご主人から聞いた話をまとめたものです。
軌道建設時代、ココ小中尾の小川本流そばに労働者の宿舎があったそうです(構内図参照/位置は推定)。とある晩、女性の賄いさんが“毒キノコ・ツキヨタケ”の入った味噌汁を夕食に出したそうです。しばらくして賄いさんが食堂を覗いたところ、全員がお腹を押さえ“呻き”ながらバタバタ死んでいったそうですわ。それで付いた名前が「呻き小屋」。「唸り小屋」とも云うそうな。

2005年某月某日、去来荘のご主人の紹介で赤沢自然休養林内で働く古参兵殿に訊く機会を得た。
全員死んでいなかった説が浮上!!!!!! 軌道建設時代ではなく小谷狩(流送)時代説が浮上!!!!!! などなど...

そして2006年某月某日、去来荘のご主人が重要人物の証言を得ることに成功し、ウチにFAXが送られてきた。その重要人物とは……元上松運輸営林署ゝ長。2006年現在で85歳になる元署長の証言はこうだ。「確かにあった話だ。キノコでな。死人も出たが、全員ではなかったと思う。昭和の話で営林署の職員だ。」 昭和??????? 営林署の職員???????

2010年5月某日、去来荘に立ち寄ってみたら新たな情報を得られた。ご主人によると、約2年前の“広報・あげまつ”に掲載されたという。役場に行けばバックナンバーを見せてくれるよ、と言われたが、あいにくこの日は休日。平日もちょっと厳しい...

2011年5月連休谷間の平日、ようやく役場に出向くことができた。が、“大人の事情”でバックナンバーを見ることができなかった。しかし、担当の方に記事の内容を伝えたら、手の空いたときに探してくれるという。見つかったらFAXで送ってくれるという。
数日後、役場からFAXが届いていた。そこには驚愕の真実が... ちなみに、“広報・あげまつ”ではなかった...(笑)
『小中尾のうなり小屋』(上松町史民俗編より) 資料提供:上松町役場
むかしといっても、さして遠いむかしではありません。明治のころのことです。小川の上流赤沢へ行く途中にある、小中尾の対岸の平に山小屋がありました。

この山小屋には、近くの山で木を伐る杣衆と、伐った木を山から川へ出し、さらに小谷狩をして流送する日雇(ひよ)衆が、大勢寝泊りをしていました。この他には、炊事の世話をする“かしき(炊婦)”1名と、薪を割って風呂をたいたり、杣衆や日雇衆の仕事場まで弁当を運んだり、毎日町まで郵便を持ってきたり、町からの連絡の書類を運んだりする、茶坊といわれる、少年がいました。

この茶坊の少年の特権といえば、杣衆や日雇衆の山から帰ってくるまでに、谷川から引いた水でわかした風呂に、先に入ってもよいことでした。もちろん湯かげんを見ておくという、ねらいがあったかもしれません。“かしき”のおばさんも、先に入ってもよいきまりでした。

秋の紅葉の美しい頃のことでした、町へ用事に行こうと焼笹へ向っていた、茶坊の少年はふと山裾の木の間に、沢山の皮茸(かわたけ)が生えているのを見つけました。この茸は黒っぽく毛のはえたように見えますが、味が良くとても美味しい茸です。心優しい茶坊の少年は、小屋に引き返し大きな篭を、背負ってきて、この茸を沢山取って、杣衆や日雇衆に食べさせ、喜んでもらおうと“かしき”のおばさんに、夕飯のおかずに煮付けてもらうように頼んで、再び町へ用事に下っていきました。

茸とりをしたので、その日は帰りが遅くなり、茶坊は薄暗くなった山道を、小中尾近くまできました。
すると、どこからともなく、「ううん」「ううん」という気味の悪い、うめき声がきこえてきます。小屋に近づくと声は一段と大きくなり「ううん苦しい」「ううん助けてくれ」「ううん苦しい」「ううんもうだめだ」と、いう声まできこえます。

小屋の戸を開けると、そこはまるで苦しがっている人や、もう死んでいる人もいて地獄の絵図を、見ているようでした。
なんと茶坊の少年が採っていた茸は、皮茸に大変よく似ている、猛毒の茸のクマベラでした。

驚いた茶坊の少年は、山道を転がるように一番近い、焼笹集落に急を告げ、集落の人はすぐに駆けつけ、やがて町からも医者も駆けつけましたが、ついに助かった人は、茶坊の外一人もいませんでした。

山で亡くなった人の葬儀がすむと、この山小屋は取りこわされてしまいましたが、それからはこの附近を通る人の耳に「ううん」「ううん」といううなり声が、どこからともなく聞こえてきたそうです。
特に茸の生える秋になると、うなり声はよく聞こえたといいます。

誰いうともなく、この附近のことを「うなり小屋」と呼ぶようになったそうです。

ちなみに、お隣大桑村の阿寺渓谷にも似たような話があります。
野尻森林鉄道阿寺線の章にも書いてありますが、一応載せときます。
『ウナリ島』
その昔、許されぬ恋中の二人がここに「駆け落ち」して人目を忍んで住んでおりました。ある日、女が毒キノコを食べ激しい腹痛におそわれ、男はあれこれ介抱したが、女は苦しむばかり、たまりかねた男は夜の山道を里まで走り下り、ようやく薬を求め帰ってみると女はすでに死んでいた。男は声を上げ泣き悲しんだ。そして、その苦しみ悶えた女のうなり声と男の泣き声が今でも雨で増水した夜、この島から聞こえるという。
------- 小川森林鉄道8 END -------
小川森林鉄道路線図

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